店主のつれづれなるままに コアアートスクエアからのお知らせ
1521句が問いかけるもの
広島への原爆投下から10年後の1955年8月6日、原爆合同句集『広島』が刊行されたという。
ことし8月には、その句集が編集委員の家から500冊も発見されたと話題になったらしい。
そのことは寡聞にして知らず、この度、俳句同人誌『里』の特集で知った。
1521句の俳句が、静かに私たちに問いかけるものーー。
そのいくつかを読んで、あらためて77年前の広島を想う。
そして鳥越さんというかけがえのないハーモニカ仲間のことを想う。
ことしの夏、「あつぎハーモニカ協会」会報に書いた拙稿を再掲させていただく。
ハーモニカで伝えた平和と命の大切さ 広島の鳥越不二夫さんのこと
「先生、先日NHKの歌番組の収録に行ってきました」
電話口の声はアクセントに特徴のある広島弁の鳥越不二夫さんだった。鳥越さんは広島に原爆が投下された日、爆心地から2キロ離れた自宅で被爆し、過酷で多難な人生を生きてきた。75歳を過ぎてさらに「骨髄異形性症候群」という難病の宣告を受け、毎週の輸血で命をつないできた。そんな境遇にくじけることなく、もっと光り輝きたいといつも言い続けた笑顔の人だった。
晩年は仲間とともにハーモニカに取り組み、「好きなハーモニカが吹けることが最高の喜びです」とも語っていた。電話の声の向こうに、鳥越さんの眼鏡越しのやさしい眼差しが思い浮かぶ。そのとき、鳥越さんは87歳、米寿に近いお年だった。
2018年3月21日、昼に放映されたNHK「民謡魂 ふるさとの唄」。45分ほどの歌番組で、何人かの歌手が広島ゆかりの民謡を歌う。番組の中盤に「命を救ってくれた“母の子守唄”」というテロップが流れ、暗く照明が落とされたステージ奥には、小学生の頃の鳥越さんとお母様の大きな写真パネル2枚がスポットライトを浴びて掲げられている。
司会者が鳥越さんの被曝体験と、その後の顛末を語る。母の歌う子守唄で意識を取り戻したことや、母からもらった小さなハーモニカにまつわるエピソードも紹介される。そこで鳥越さんがステージに呼び込まれ、10穴ハーモニカでお江戸子守唄を吹くのだった。
「ああ、元気でいらっしゃる」と安堵の心持ちで、僕はそのテレビに映る鳥越さんを見つめた。
鳥越不二夫さんとの最初の出会い、それは2008年2月のことだった。僕たちThe Who-hoooは斎藤寿孝さん、間中 勘さんとともに広島に招かれて、演奏を交えた講習会をやり、翌日は山口県へと向かう。朝の新幹線で偶然同じ車両に乗り合わせたのだった。防府市では「第3回山口県ハーモニカ演奏交流会」というコンサートが企画され、広島のグループも参加することになっていた。
新幹線から在来線に乗り換えると座席はガラガラに空いていて、鳥越さんと隣り合わせた。鳥越さんの居住まいからは、深い思いを持って人生を歩んでこられた方という印象を受けた。ご一緒できた嬉しさもあって雑談のなかでふと、77歳になられたばかりの鳥越さんに戦時中のお話を聞きたく思った。すると鳥越さんは窓外に目をやりながら、昭和20年8月6日の朝の、克明に記憶された原爆投下の一瞬時のことを静かに語り出してくれた。
「火の玉が溶けるような光を見ました」
昭和20(1945)年の夏、鳥越少年は崇徳中学校の3年生で、学徒動員でプロペラやら何やらが山積みされた近郊の三菱の工場で、飛行機の部品作りをする仕事に駆り出されていた。8月4日の土曜日も仕事。慣れない手つきで旋盤を扱いながら鋳物を削るのが任務だった。午後には健康診断があり、医者から脚気だと言われ、精密検査を受けるよう指示された。帰宅して母親に医者からもらった診断書を見せ、6日の月曜日には朝から病院に出かけることにしていた。
6日の朝は早くから強い陽射しが玄関に射し込み、暑い一日を予感させた。母は台所に、姉は風邪気味でまだ床の中にいた。鳥越少年は部屋で低く聞こえるかすかな飛行機の爆音を耳にした。B29の音だ。少し前には警戒警報が出されていたが、ついさっき解除のサイレンが鳴った。
「ああ、敵の飛行機が逃げて行くんだな」
鳥越少年は縁側に出ると下駄履きのまま外に出た。空はどこまでも青く澄み渡って太陽は眩しかった。上空からは依然として爆音が聞こえてくる。高いところを飛んでいるのだろうか。満遍なく空に目をやったが機影は見つからない。
鳥越少年の住まいは中広町から紙屋町、八丁堀あたりが一望のもとに見下ろせる高台にあった。家の近くには前方を横切るように山陽線が走っている。鳥越少年は半袖の白の開襟シャツに黒の半ズボンで屋外に立っていた。爆音ばかりが気になって、病院に出かける時間のことはすっかり忘れていた。爆音は次第に東の方角へと遠ざかって行くようだった。
そろそろ家に入ろうかなと思った瞬間だった、激烈に燃えるような光の塊が目に飛び込み、まるで花火が炸裂するかのように視界に広がった。
「わっ、きれいだ」と思うやいなや、顔に煮え湯を浴びせられたような熱波が襲った。
「熱い!」。まったく瞬時の出来事だった。閃光を遮るものは何もなかった。まともに正面から熱線を浴びたのだった。
一瞬、気を失っていたかもしれない。起きあがろうとしたら履いていた片方の下駄がない。探そう、と思う間もなく爆風が襲いかかり、身体は宙を浮いて5、6メートル吹き飛ばされた。コンクリートの防火水槽にぶち当たった。気がつけば顔も手も異常に熱く、両腕と顔全体がチリチリ、ヒリヒリし始めた。腕の皮膚が真っ赤にただれて、我慢ができないほどの激痛が襲う。鳥越少年は思わず目の前の水槽の水を手で掻き出し、何度も身体に水をかけた。それでも痛みは増すばかりだった。
そのうちに両手が腫れあがってきた。顔も腫れあがってきた。顔を触ると風船に触っているような感触だった。周囲のあちこちから煙が立ち昇っていた。枯れ草が燃えて炎も見えた。遠くで母親が自分を呼んでいる。
「おかあさん、おかあさん、ここにいるよ。熱いよ、痛いよ!」ありったけの声で母に応えた。母親が駆け寄ってきて、鳥越少年を抱き抱えると防空壕へと駆け込んだ。壕は家から少し離れた畑の片隅に大きく掘られた暗い穴蔵で、3、4人は入れた。いつもは子どもたちのかくれんぼの遊び場だった。
どれほどの時間が経っただろうか、濠の外が騒々しくなった。男女のさまざまな声が飛び交っている。たまたま通りかかった列車が閃光と爆風で山手付近に緊急停車し、客車からは多くの人々が一斉に吐き出されて彷徨っていたのだった。
「水、水、水をちょうだい」「水がほしいよー」「熱いよー」「助けて!」「苦しいよ!」
悲痛な叫びをあげて、助けを求める声で騒然としていた。鳥越少年は意識が薄らいでいく。やがて夕立のようなすごい雨音で目が覚めた。壕に雨水が流れ込み、たちまち布団は水浸しになって背中が冷たい。布団は母が家から運び込んだらしい。雨が止み、手や顔が火膨れになった鳥越少年は外に連れ出された。周囲には男女の見分けがつかないほど真っ黒になったたくさんの人が倒れていた。
鳥越少年は陸軍病院のようなところに連れて行かれ応急処置を施された。家に戻り高熱で朦朧としたまま床に臥した。生死の境を彷徨って意識の戻らないまま数日は経っていただろうか。
「ねんねんころりよ、おころりよ……」。子守唄が低く、遠くから聴こえてきた。うっすらと意識が戻ってくる。誰かの顔がぼんやりと見える。「母だ、母の歌う子守唄だ」。ようやく母の笑顔が確認できた。死の淵から蘇ったのだった。が、鳥越少年は声も出ない。身体中が包帯で巻かれて動きもままならない。皮膚が腐って血膿が包帯の隙間から流れ出る。鼻血もカチカチになった包帯の間からひっきりなしに流れ出た。顔はお面をかぶっているような感触だった。
生きて数年の命と、医師から告げられていた。それでも母親の必死の看病で鳥越少年は一命を取り留めた。しかし白血球の異常な減少が続くなど体調も思わしくなく、苦しい日々はずっと続いた。
25歳の時には首にできたケロイドを治す皮膚の手術で入院した。病床に臥して恢復を待つ間、母はどこから手に入れたのか、ドイツ製のハーモニカを鳥越さんに手渡した。口の筋肉がうまく動かず、しっかり吹くことは叶わなかった。ベッドに横たわったままかすかな息を吹きかけると、鳥越さんの想いに応えるようにやわらかな音がした。嬉しかった。息ができることがなによりも嬉しかった。
「早くよくなって、吹けるといいね」
母は優しく鳥越さんを励ました。その後も後遺症や差別に苦しみながら、やっと辿りついた小学校教諭の仕事に注力した。定年で教職を辞すと、広島市で始まった小学校の平和学習で、鳥越さんは自らの被曝体験を子どもたちに語って平和と命の大切さを訴え、ポケットからハーモニカを取り出した。
「私の命をつなごうと、母が歌ってくれた子守唄です。母からもらったハーモニカで吹きます。どうか聴いてください」
鳥越さんとの交流は10年間にわたって、幾度かの広島訪問で親しいものになっていた。僕たちのコンサートがあると言えば、東京までも聴きにきてくれた。
2018年5月、テレビの放映から3ヶ月が経っていた。新緑の眩しい季節に鳥越さんの身体に異変があって、広島日赤病院に運ばれた。一報を受けて、5月25日、僕たちは広島に向かった。
鳥越さんは集中治療室で鼻に管を通して横たわっていた。面会は謝絶だったが無理を言って、僕だけが入室を許可された。手にグローブをはめた鳥越さんと久しぶりの再会を果たせた。言葉は少なかったが僕の呼びかけにしっかり応えてくれて手を握り合って別れた。
6月2日、吉祥寺のライブハウスでブルースハープ・コンテストの最中だった。携帯に広島のNさんから着信があった。店の階段を走り上って外に出ると、辺りはすっかり宵闇に包まれていた。折り返しNさんに電話すると「鳥越さん、亡くなったんじゃけえ……」。すべてを了解した。悲しみよりも、たくさんの楽しかったことばかりが走馬灯のように思い起こされた。
その年の73回目となる原爆忌には、五千人近くの新たな被爆者の霊が祀られた。そのうちの一人として名前が記載され、慰霊碑に奉納される式典をテレビで観ながら、あらためて胸に迫るものがあった。1分間の黙祷のあいだ、ずっと鳥越さんのことを想った。大切なものは、ふと消えてしまうものだ。けれど鳥越さんは僕の脳裏に生きて、やさしく微笑んでいた。そして、いまも……。
参照文献■私家版『原爆と私』鳥越不二夫