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『口琴藝術』より コアアートスクエアからのお知らせ

2025年01月08日

柳宗悦の思想と祈り

『口琴藝術』No.228に書いた「鵜の目鷹の目」、「ハーモニカ隆盛時代の裏で—柳宗悦の思想と祈り」という一文を転載します。

ハーモニカが日本で最も盛んだったと思われる時代は、大正から昭和にかけての戦前でした。そんな時代の裏側でこんな事態があった。こんな人がいた。忘れてはならない大切なエピソードだと思います。ご一読いただけたら幸いです。

明治四十三年に同人誌『白樺』が創刊されます。集ったのは武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎、里見弴ら九名の作家同人と柳宗悦たち三名の美術家たち。その多くは学習院の同窓生でした。奇しくも、その年八月には韓国併合条約が調印され、朝鮮総督府が設置されます。当時の学習院院長は乃木希典。人格形成とは、よき軍人にもなり得ることでもありました。しかし、白樺派同人たちの認識はその対極にあるものでした。

白樺派は大正デモクラシーの風にのって、人間の生命を高らかに謳い、理想主義や人道主義の精神を反映する作品を生むなど、関東大震災を機に『白樺』が廃刊となるまで文壇の一大勢力でした。またロダン、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなど西洋美術の新潮流にも強い関心を示し、『白樺』誌上でその絵画や彫刻を積極的に紹介、美術界に大きな刺激を与えました。

そんな白樺派の理論的支柱の一人、後の民藝運動を牽引する若き柳宗悦の存在は大きかったはずです。柳の関心領域はウィリアム・ブレイクの研究やトルストイの評価にとどまらず、美術評論、宗教哲学、そして民藝運動へと広がっていきます。その多面的な活動は、白樺派の思想を多様な運動へと発展させました。

当初、西洋芸術に傾倒していた柳が、その美的関心を東洋へと移します。その契機は大正三年、朝鮮で美術教師をしていた浅川伯教から李朝白磁の瓶を見せられたことでした。柳はその陶器の美しさに心打たれます。「その冷(ひややかルビ)な土器に、人間の温み、高貴、荘厳を読み得ようとは昨日まで夢みだにしなかった」というほどの衝撃でした。

大正五年、柳は初めて朝鮮半島を訪れ、各地を巡って陶磁器や木工品、絵画などを収集。この地が植民地として日本の支配下に置かれる状況を目の当たりにして、人々の悲痛を我がことのように感じ、日本の武断主義的な支配を批判します。

大正八年三月、朝鮮で「独立万歳」を叫ぶ運動が勃発すると、たちまち各地に波及して二百万人が蜂起。日本政府は軍隊に鎮圧を命じ、数多の朝鮮人を殺戮しました。この事態に深い衝撃をおぼえた柳は、急ぎ「朝鮮人を想う」を書いて『読売新聞』に投じ、大正九年、さらに筆をとって「朝鮮の友に贈る書」を発表します。

〈私はこの頃、ほとんど朝鮮の事にのみ心を奪われている。(…)貴方がたの心持ちや寂しさを察する時、人知れぬ涙が私の目ににじんでくる。(…)

人は生れながらに人を恋している。憎しみや争いが人間の本旨であり得ようはずがない。様々な不純な動機のために国と国は分かれ、心と心が離れている。不自然さの勢いが醜い支配に傲っている。(…)何事か不自然な力が、吾々を二つに裂いているのである。……〉

いまの世は不純な勢いを醸している。しかし愛に悦び人情に潤う生活が、人間の心からの求めなのだ。一国の名誉を悠久ならしめるものは武力でも政治でもない、宗教や藝術や哲学のみだ。共に我々は自然の心に帰り、人情の自然さに互いを活かさねばならない。情愛にこそ真の平和があり、幸福がある。真理はそこに固く保たれ、美はそこに温かく活きる。そんな柳宗悦の祈りにも似た呼びかけは悲痛な色を帯びます。

言論統制の壁、言葉の壁で朝鮮の人々に柳の思いがどれだけ届いたのか、それはわかりません。しかしいま、分断を深める世界に、柳宗悦の思想と祈りは読み直されてよいのではないでしょうか。

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